「千の感動」その12007年04月14日 08時35分22秒

歳を重ねるにつれ、物事に対する驚きや新鮮さが薄れ感動しにくくなるのでは、と漠然と考えていましたが、実際、「感動なしには生きて行けないのが人間だ」と考えるようになって来ました。

そこで近頃出遭った感動体験のひとつ、東京お台場のノマディック美術館で行われている「ashes and snow展」の出来事です。私にとって本当に衝撃の出来事と言っていい体験でした。

建築家の阪茂(ばんしげる)の設計による仮設の美術館で、ユニークなことに、5,300㎡の広いスペースはすべてコンテナと紙の筒で作った柱とトラスによって出来あがっています。

仮設の美術館は、今後、仙台市でも使えるかもしれないので見ておこうという軽い気持ちでしたが、ここで行われているグレゴリー・コルベールの写真と映像の世界にすっかり魅了され、というより茫然自失の状態になってしまいました。映像の特徴としては、映し出される人間たちはすべて目を閉じています。祈りの表情とも、魂の交信に耳を欹てている姿にも見えます。

映像の中には演出過多と思えるものもありましたが、象・鯨・豹・オラウータンなど動物も人間も同じ地球の生命体のひとつとして魂が触れ合えるのだという喜びが伝わってきました。

コルベールは「すべての動物が共有していた言葉と詩的な感覚を探る過程を通じて、人間が動物と調和していた時に存在していたはずの共通の基礎を再発見したい」と述べています。

そもそも「感動」とは何でしょうか?以前私は、ジル・ドゥールーズに触発され『感動の構造(リゾーム)』などという小難しい論文を書きました。様々な感動体験を分析し、感動は人間の根底(無意識と言ってもいいのですが)に潜む根茎(リゾーム)に触れてくる物事にあり、無意識の開花、自己忘失としての離人症などがその構造にあるとしました。

そんなわけで、何がそんなわけかとブログ管理者に叱られそうですが、頭がクラッとすることが「感動」で、「せんくら」を千の感動だなどとオヤジギャグにして辻褄を合せるつもりではなく、私は「仙台クラシックフェスティバル2007」でたくさんの感動が再び起きることを願って、このタイトルでブログに参入させていただきたいと考えました。

音楽は目を閉じていても鑑賞できる、音楽家と魂の交信が可能な唯一の芸術です。今年の「せんくら」もそんな3日間となりますように・・・。

(cf:ジル・ドゥールーズの『千のプラトー』)

志賀野桂一(仙台市文化スポーツ部長・仙台クラシックフェスティバル運営副委員長)