中川賢一(2)2007年07月02日 09時00分17秒

私の中では仙台のイメージは冬です。空はいつでも曇り。こう書くと非常にネガティヴな印象を与えかねませんね。でも人間が一日中スカッとした状態にいることだけがその人にとって本当に幸せなのだろうか、アートを生成することにとって有用なのだろうかとも思うことがあります。私自身、実は幼年時代は、もしかしたら無意識のうちに今も、鬱々としていることが常で、ではその状態が苦しみであると自覚していても、自分にとって本当にいやな状態なのであるかというと「?」です。その鬱々とした状態の中だからこそ、私の思っている「深い」クラシック音楽をむさぼりたいとも思うのと、そのときに私に与えるネガティブをポジティブに変えようとする内的な変化はひとつの「希望」であって「希望」があるからこそ物理的に生きる原動力となるのかなあ、と思っておりました。どうしてもある種の動物や、虫のように食っちゃ寝、食っちゃ寝という生活を苦も無くできればよいのですが、人間はどうしても感情があるために、なかなか行動が規則的に行かない側面もあり、だからこそそのいびつな溝をもしかしたら音楽のようなアートで埋めていって、どうにかこうにか精神的な均衡を保っているのではないかと思う事さえありました。これもいつも鬱々としている仙台の中にいるからこそ味わえる、不均衡さの中での均衡を感じているからこそ思うことなのですが・・・つまり私は仙台に生まれ育ってよかったということです。

どうやら仙台は日本で何番目かに日照率の少ない、また天気を予測しにくい都市らしいです。この曖昧さと予測難の不安定さは嫌いではありません。

北の鬱蒼とした音楽、ラフマニノフ、チャイコフスキー、シベリウス、グリーグ、ブラームスほか、雪、時には吹雪と退屈なまでの雲の天井を想起させる音楽は非常に自分にとっては身近です。そういったにび色の中に沸き立つ長い持続を持った暖かい感情は私にとってかけがえのないものです。

それに対して以前はフランスの音楽は憧れでした。あの軽く色彩感に溢れた世界は自分とは全く正反対のものに思えました。私の知っているパリはそれに反して、華やかな街中とは対照に、天気はなかなか曇りが多かったと記憶しております。そのやはり「グレー」の世界の中に、時々垣間見せる鮮やかな光を見出そうとしたフランス音楽が自分の中でもふつふつと身近に思えるようになってきました。私の中でのドビュッシーやラヴェルは、単に響きが美しい、綺麗というだけではなく、もやもやした人間の感情を、名人芸的なプリズムによる美化で、黒いものも、グレーのも、白いものも色彩を帯び、与えられて甘味を感じさせられます。それが、いくばくか皮肉めいたユーモアが感じられるというのも、人間の多少否定的な回路を通した快感も、どちらも単に「感じる」ということであるために、自分の体内にある自然な感情の生理に対して嘘はついていないと思うと、実はストレートに快感を得ていると思うと、これももしかしたら仙台という土地で自然と培われた感情なのかなあと思うときもあります。

コメント

_ 忍 ― 2007年07月02日 16時40分10秒

モーツァルトのシンフォニー40番の寂寥感がなんとも好きです。あふれるくらい満ち足りているより、少し不足気味のほうが考えることもあっていいんじゃないでしょうか。音楽を聴く時もお腹いっぱいの時より、少し空き気味のほうがより集中できます。

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