グリーン・ウッド・ハーモニー(2)土田定克2007年07月30日 11時13分47秒

土田定克(ピアニスト)

<土田さんはモスクワ音楽院在学中に参加した第1回仙台国際音楽コンクールでセミファイナリストとなりましたのでご存知の方も多いのでは。その後ラフマニノフ国際ピアノコンクール第一位を受賞しています。出身は東京ですが、縁あってこの4月から尚絅学院大学で教鞭をとられています。同じピアニストの奥様、お子さんと3人、自然豊かな環境での生活も満喫されています。>

仙台に来て早4ヶ月が経ちました。東北での生活は初めてですが、日本の北国は実にいいものです。

「北国には控えめな美しさがある」とある時ロシアで友人が語っていたのを思い出します。最早7月だというのにまだこの気温!その寒さに驚かされるばかりですが、窓の外を見ていると人の手がつけられていない木々の緑が喜んで生きています。

グリーン・ウッドとは2回協演させていただきました。練習時の熱心さもさることながら本番での底力には圧倒されるものがあります。

杜の響き、とでもいいましょうか、大人数で歌われる混声合唱の迫力、音響のスケールには壮大な森の木々がこだまし合っているような感覚さえ覚えます。一人一人が自由に歌っていて、なのに全体が調和している、それは自然界の法にも適ったGWH独自の魅力だと思います。今後とも素晴らしい歌を是非たくさん聴かせて下さい! 

・・・GWHのステージまであと69日・・・

グリーン・ウッド・ハーモニー(2)今井邦男2007年07月30日 11時13分48秒

今井邦男(グリーウッドハーモニー指揮者) 

「父のピアノ」 

僕は、今でも父の使っていたピアノを使っている。昭和15年製造のヤマハである。

満鉄(満州鉄道株式会社)に勤めていた父が、大連に住んでいた頃からのもので、僕はそこで昭和17年に生まれた。しかし父がカリエスに罹り、昭和19年12月には帰国することになり、宮城県は桃生郡須江(現石巻市)に療養目的で疎開したのである。 この時期にピアノを含む家具一切と共に引越しできたのは全く稀有のことだったに違いない。われわれを下関に運んだ客船は帰路爆撃をうけて沈没しているのである。

父は学生時代、個人レッスンで声楽を学んだ。師は武蔵野の東海林先生(東海林太郎の奥さん)とのことだった。ピアノも弾いたし作曲もした。こちらも相当程度レッスンを受けていたに違いない。父の兄弟にはもう一人、山田耕筰に和声を習い、作曲もする叔父がいたので(この叔父は専門家になり、後年日本音楽学会で活躍した)、当時としては洋楽を学ぶことができるというかなりモダンな家風が今井家にはあったのだろう。

というわけで父は、音楽を生業にこそしなかったが一生を音楽と共に生きた。満鉄時代には合唱団を組織してその指揮者をしていたし(これが150名はいる大合唱団だった)、 須江村で終戦を迎え、病床から少しずつ起きられるようになってからは、いつも村の中学校の生徒たちがわが家にコーラスの練習にやってきていたのである。練習場所が学校でなかったのは、病身の父の都合もあったと思うが、学校を含めて村にあるピアノが我が家の1台だけという事情のせいだった。中学生たちは戦後すぐのNHK学校唱歌コンクールに出場していたのである。

さてそのピアノだが、昭和15年頃のヤマハの技術の程度には詳しくはないが、外側はヤマハで内部のアクションはドイツ製だった。鍵盤は85鍵あり、(現在はほとんど88鍵)象牙を使っている。「だった」というのは実は現在のピアノは、14、5年前リニューアルしたものである。愛用していたピアノもさすがにピンの緩みが激しく調律が出来なくなっていたところ、現在大和町でピアノ工房を開き活躍されている伊藤正男さんと知り合い、リニューアルすることにしたのである。ピンを打つ響板を含めて、内部のアクションを全て一新する大改造である。結論から言うとこの改造は大成功だった。

以前のピアノは素晴らしく柔らかい、繊細な響きがいつまでの残るピアノだったが、一方でタッチは老化したせいもあってかフォルテの打鍵にはやや頼りないものだった。

リニューアルピアノは、さすがに以前の繊細な音色と打鍵後の長い響きを失っていたが、かといってどのピアノでも聴いたことがない新しい柔らかさと深みをもつ魅力的なものに変身していたし、打鍵は強打にも十分耐える素晴らしいものになっていた。

こうして父のピアノは今年で67歳、既に父の歳を越えている私より年上だが、優に私を越えて長生きすることは間違いない。大連で(確か購入は韓国のソウルだったかもしれない)満鉄合唱団の譜面が弾かれ、石巻では村の中学生の合唱の伴奏をし、何人かの専門家も育てた。

僕自身は自分のピアノを持っていたが、父の亡き後は次第に父のピアノで仕事をするようになった。今でもピアノに向かうと、どこからかピアノ自身の歌が聞えてくることがある。私の乳母の声である。

谷川賢作の股旅日記(2)2007年07月30日 11時14分55秒

7月19日(木)今日はやはり神戸の「エレガーノ甲南」という介護付き老人ホームでの演奏会。入り口を入ってびっくり!なんと高級ホテルのようなおちついた、かつ豪華なたたずまい。働くスタッフもきびきびとしながらも品がある。演奏会場はまるでダンスホール。皆様との距離をおかずに、より近くで演奏者の気を感じていただこうと、舞台を使わずフロアに直接ステージセッティング。今日のゲストはパーカッションの山村誠一。スティールパンの名手だ。さてさて、人生の酸いも甘いも噛み分けた方々へ我々の音楽がどう届くのか。

パーカッションの参加もあり、リハ時に「ご年配の方には少し刺激が強いのでは」とやんわりクレームがついた曲もあったが、一日の演奏、静かな曲ばかりでは構成できないし、ジャズをベースとした「パリャーソ」の名がすたる。「まりと殿様」という童謡をリズムを強調してジャズアレンジしたかっとばし系の曲もやってみる。

最初からノリノリで踊っているご婦人(どうやら認知症の方らしいのですが)瞑目して聞き入っているが、時折りカッと目をあけこちらを見入る、まるで仙人のような紳士(あとできいたところによると、引退された能狂言の重要な役者さんだそうです。今でも教えを乞う人がたえないとのこと)曲によって快、不快の念をストレートに表情にだされる方、拍手をふくめまったくなんの反応も示されない方。いろいろな方がいろいろな反応をされることに、最初少しとまどってしまうが、だんだんといつもと変わらないノリノリの演奏になっていく我々に、聴いてくださる方々が、徐々にひきこまれていくのを肌で感じる。

あたたかいアンコールの拍手も頂き、ほっとひといきついている私のもとへ、「あなたたちすごくよかったよ、CDあるの、買いますよ」と声をかけてくださった方に涙がでる。案ずるより産むが易し。つたない言葉で自分たちの音楽を言葉で解説するより、結局一つの音のほうがどれだけの説得力があることか。