御喜美江(2)2007年08月13日 07時44分45秒

私はグリークの『叙情小曲集』が大好きです。
これはピアノのために書かれた小品集で、作曲者が長い年月にわたって書き綴った「音楽日記」とも言われていますが、私にはまるで「ブログ」のようです。民族色豊かな踊りやお伽話の世界、風景の描写、様々な感情表現、どれもこれも素晴らしく美しい世界であります。今年2007年はグリーク没100年であり、先日の「オウルンサロ音楽祭」でも様々なグリーク作品が演奏されましたが、今年1月スウェーデンの古い教会で、私もオール・グリークのCD録音を行い、5月にリリースされました。この録音は学生時代からず~っと抱いてきた夢でありましたので完成したCDを初めて手にした瞬間は感無量でした。なんだか新盤を宣伝するようで恐縮ですが、「アコーディオンとグリーク」を知っていただきたという願いをこめて、今日はそのプログラム・ノートを紹介させていただきます。長文ですがお時間のあるときにでも読んでいただけたら幸せです。
                (2007年8月12日ラントグラーフにて)

          *

旅するアコーディオン
― グリーク『叙情小曲集』との出会い ―

クラシック・アコーディオンのレパートリーというと、古いものか新しいもの、つまり古典か現代作品の2つに限られることが多い。それは一つに、この楽器の歴史がまだ浅く、オリジナル作品が全て20世紀後半から始まるのと、もう一つは「鍵盤楽器」として古い時代の音楽も編曲せず原曲のまま演奏できるからである。

しかしアコーディオンが産声をあげたのは1829年、まさに「ロマン派」の時代だった。それはドイツ・オーストリア地域で考案され、ウィーンで“Accordion”という名前の特許登録がされたのち、様々な楽器職人たちの手で改良され、まもなく商人、船乗り、移民たちの手によって海外へ運ばれていった。その行き先は隣国のスイス、フランス、イタリア、ベルギーのみならずロシア、スカンジナビア諸国、東欧諸国、そして遠くはアメリカ、アルゼンチンにまで及んだ。そして小さなアコーディオンは異国の地に移住すると同時に、新しい文化、気候、慣習を受け入れ、まるでそこで生まれ育った楽器のような自然さをもって、その民族音楽の仲間入りをした。人々は新しく登場したこの楽器を「わが故郷の楽器」として親しみ愛し大切に育てていった。ロシアのバヤン、フランスのミュゼット・アコーディオン、そしてアルゼンチンのバンドネオンといった名前を耳にするとき、私たちが思い浮かべる音楽は、哀愁をおびたロシア民謡であり、華やかなシャンソンであり、情熱に満ちたタンゴであろう。そこに1829年のウィーンの面影はもう微塵もない。そう、生まれた場所ではなく、育った場所が、アコーディオンをそのように変化させていったのだ。

20世紀に入ってからもアコーディオンの改良はさらに続けられ、フリーベース・アコーディオン* の誕生とともに伴奏楽器から独奏楽器へ、民族音楽からジャズへ、クラシックへと、ジャンルも大きく広がっていった。そしてこの頃からアコーディオンのためのオリジナル作品が多く書かれ始め、ヨーロッパ各地の国立音楽大学にはアコーディオン科が設けられ、世界コンテストやフェスティバルなども盛んになってゆく。

こうして進化したアコーディオンには、それぞれ異なったキャラクターや色合いがあり、醸し出す雰囲気も多種多様で、外観、キーボードシステム、メカニック、さらにはサウンドに至るまで、他の楽器では考えられないほど多くの種類がある。しかしどの時代、システム、ジャンルをも越えて共通するもの、どのアコーディオンにもバヤンにもバンドネオンにもなくてはならない要素が、実は2つあると私は思う。それは「うた(Lyric)」と「超絶技巧(Virtuosity)」であり、この2つはまるでアコーディオンの「遺伝子」のようだ。アコーディオンの蛇腹は「うたう器官」、そして左右の指たちは軽い鍵盤と小さなボタン上を「特急テンポ」で飛び交う。1829年から今日まで、この2つの「遺伝子」だけは全く変化していないように私は感じる。そしてこの2つの要素が最も大きな役割を果たしている時代はいつだろうと考えるとき、「ロマン派」にそれがぴったりとおさまるように思えるのだ。

グリークがその生涯において日記のように書き続けた『叙情小曲集』を、私は学生時代から大変好み、常にコンサートのレパートリーとして弾き続けてきた。本来はピアノ曲であるこれらの作品を、どうして自分はあえてアコーディオンで演奏したいと思い、すでに人生の半分近くも弾き続けているのだろう。

そのわけは・・・
『叙情小曲集』を演奏するとき、私はその物語の中に入り込み、語り、歌い、踊り、演じることができる。そこで自分は「小鳥」となってさえずり、「妖精」となって踊り、「孤独な旅人」となって嘆き悲しむ。「郷愁」では人の声を、「バラード」では涙を、「コーボルト」では悪戯を、体に密着した蛇腹をとおして表現することができる。とくに「蝶」では、ピアノで演奏すると蝶が舞い飛ぶ春の風景ようにきこえるが、アコーディオンの場合は自分が「蝶」となって野原を舞い飛び、蝶の視点が演奏の起点となる。そして農夫が一日の仕事を終えて畑から帰途へ着く光景、おばあさんがメヌエットを踊る瞬間、小人が森の中を行進する様子、子守唄、ノルウェー舞曲、ワルツ、そして感謝、秘密、期待、・・・一人舞台の役は曲ごとに変化し飽きることを知らない。
アコーディオンの遺伝子をここまで自然に使いこなせる作品が他にあるだろうか。

19世紀におけるアコーディオンは、楽器の改良と旅の時代だった。そしてちょうどその頃に書かれたのが、グリークの『叙情小曲集』だ。この歴史的偶然を一枚のタイム・アルバムにしてみたいという願いは学生時代からあったのだが、ようやく一枚のCDとして誕生することになった。これは私にとって人生の足跡のような感もあり、森と湖に囲まれたレナ教会**において、ハンス・キップファー氏のもと、淡い冬の光と深淵なる静寂の中で行われたこの録音は、演奏家冥利に尽きる夢の3日間、そして星の時間であった。

*フリーベース・アコーディオン:
左のベース側にも音域5オクターブ半の単音ボタンを持つアコーディオンのこと。
尚、左手がこのように解放されたことでポリフォニー演奏が可能となった。クラシック・アコーディオンまたはコンサート・アコーディオンとも呼ばれる。

**ストックホルムから約100km北東に位置し、14世紀の初めに建てられた石造りの小さな教会。

吉松隆(2)2007年08月13日 07時45分00秒

今回「せんくら2007」のコンサート(10月6日)で仙台フィルの方々(指揮:山下一史さん)と披露する私の曲は、「子供たちのための管弦楽入門」と「コンガラガリアン狂詩曲」という2曲です。

最初の「管弦楽入門」は、そもそもは子供たちのためのオーケストラ入門コンサートのために書いたもので、その名の通り、コンサートの始めに語り付きでオーケストラの楽器を次々と紹介してゆく5分ほどの音楽です。

なにしろクラシックのコンサートというのは、黙って始まり黙って終わるのがほとんど。それに対して子供たちが「お客さんがいるのに、ぜんぜん自己紹介もしないで、黙って始めるのはおかしいよ」言うのでハッとしたのが、作曲のきっかけでした。

とは言っても、楽器を吹きながら「私はフルートです」とか「ぼくはトランペットです」などと自己紹介は出来ないので、語りの方が順番に紹介してゆきます。初披露の時は声優さんに語りをやってもらいましたが、今回は(たぶん)作曲家自身がやることになると思います。

そして、もう一曲の「コンガラガリアン狂詩曲」という変なタイトルの曲は、…これは作曲したわけではなくて、誰でも「あ、聴いたことある!」という古今の有名なクラシック名曲を20曲ほど繋ぎ合わせてポプリ(メドレー)にしたもの…です。

ベートーヴェンの「運命」に始まって、ブラームスの「ハンガリー舞曲」、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」、ビゼーの「カルメン」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」、プッチーニの「トゥーランドット」、ホルストの「惑星」・・・。次から次へと何でもかんでも出て来ます。大作曲家の先輩方、ごめんなさい。

どうしてこんな曲を書いたかと言うと、コンサートの企画をしている時にマネージメントから「誰でも知っているような有名な曲をとにかくプログラムに載せてください。そうしないとお客さん来ませんから!」と身もフタもなく言われてカチンと来たのが始まりです。(ちなみに、〈せんくら〉の方ではありません。念のため)

そこで「そんなに名曲がいいなら、あなたが言う〈誰でも知っててお客が来る有名な曲〉っていうのをぜ~んぶ並べてプログラムに載せてください。それ、み~んなつなげて一曲にしちゃおうじゃないですか!」と口が滑って(笑)・・・それで書くことになりました。

つまり、口が滑って繋ぎ合わせすぎてこんがらがってしまったラプソディ(狂詩曲)というわけですが、これはもちろん「ハンガリアン・ラプソディ(ハンガリー狂詩曲)」のもじりでもあります。念のため。

・・・・・吉松隆