吉松隆(7)2007年08月18日 09時43分10秒


最近は、クラシック音楽がブームだなんてよく言われます。

もちろん昔からファンは確実にいましたが、「のだめカンタービレ」のようなコミックス、あるいは「熱狂の日」や「せんくら」のようなお祭り仕立てのコンサートをきっかけにして、ごく普通の感覚で「クラシック音楽」に興味を持ち、接してくれる人が増えたことは嬉しいことだと思います。

むかし私がクラシックを聴き始めた中学生の頃は、クラスに「クラシック好き」など一人いるかいないかという過疎の時代。同級生たちが音楽(要するにポップスです!)の話で盛り上がっている時、「キミの好きな曲は?」と聴かれ、うっかり「ベートーヴェンの7番」と答えたところ、まるで絶滅寸前の吸血鬼でも見るような目で見られたものです(笑)

それも今は昔の物語。今ではこの曲、(TV版「のだめ」のオープニングで使われたせいで)一時は携帯の着メロの第1位にランキングしたほどの人気とか。最近も、子供のためのオーケストラ入門コンサートでこの第7の一部が流れたところ、ほぼ全員の子供が「これ知ってる!」と叫んだのには感動しました。ベートーヴェン先生も草葉の陰でどんなにお喜びか。

そういった点だけを見ると、新しい聴き手も増えて色々な作品にスポットが当たり、なんだかクラシック音楽にも明るい未来があるように「一見」思えます。

でも、時々、後ろめたさを感じることも確かです。大作曲家たちが残した名曲がたくさんあるのをいいことに、その遺産を食いつぶしているだけでいいのか?と。

実際、過去の大作曲家たちが残した「名曲」という遺産は莫大なものです。それによっていまだに多くの音楽家たちが潤い、本場ヨーロッパから遥かに離れた極東の日本にすら、その「おこぼれ(?)」が満ち満ちているわけなのですから。

しかも、現代では、そういった音楽が実に簡単に、しかも安く手に入ります。映画やテレビからは背景音楽として流れ、コンサートのチケットやCDが格安で売られ、DVDや衛星放送で家に居ながらにしてオペラの特等席の気分さえ味わえる。それは、だれもが簡単に宝を享受できる、まさに天国のような時代と言えるのかも知れません。

ただ、前のブログでもちょっと書きましたが、音楽とは、過去から受け継がれてきた人類共通の「財産」であり、音という遺伝子で伝えられる「魂」そのものです。

それは、多くの音楽家たちが命を懸けて生み出し、育ててきた貴重なものです。しかし、それをどんなに素晴らしいものだと感じ、浴びるような無償の恩恵を受けても、私たちは彼らに感謝の意を伝えたり代償を払ったりすることが出来ない。

だとしたら、私たちの出来ることは、ただひとつ。その恩恵をしっかり受けとめ、私たちの時代の魂を添え、今度はそれを未来へ伝え受け継いで行くことです。

 ですから、
 私たち作曲家は今日も作曲し、
 演奏家は世界各地で演奏し続け、
 音楽を愛する人々はコンサートに通うわけです。


というわけで、一週間にわたったクラシック講座、・・・おっと、違った。ブログでしたっけね。これで、おしまいです。後半、少々熱く(暑苦しく?)なったことをお詫び申し上げます。

 ・・・・・吉松隆
 http://homepage3.nifty.com/t-yoshimatsu/

御喜美江(7)2007年08月18日 09時44分04秒


ちょうどあと7週間でせんくらが始まります。
今回はアコーディオンの遺伝子ともいえる「うた(Lyric)」と「技巧(Virtuosity)」をテーマにプログラムを組んでみました。

尚、これは全く個人的な意見なのですが、アコーディオンに「大曲」といいましょうか、時間的に長い曲はあまり似合わないような気がします。世界コンテストなどでは時折、4楽章からなるソナタなんて大曲も演奏されますが、アコーディオンがそれによってますます面白く魅力的になると思ったことは一度もありません

服といい、カバンといい、靴といい、一目で分かる著名デザイナーのそれを身に纏ったご婦人と道ですれ違いながら、「さぞかし高かっただろうに、それにしても似合っていないなぁ。」と内心思うことがしばしばありますね。似合わないものというのは、どんな努力をしても、結局は似合わないのかもしれません。

その反面、似合うものには不思議なエスプリがあると思います。それが帽子であれ、パイプであれ、手に持つ雑誌であれ、似合うもの同士が一緒になると、1+1=3または4にもなって、素敵な雰囲気がそのまわりに生まれると思います。

スカルラッティのソナタ、グリークの叙情小曲集、ピアソラの作品、フランスバロックの鍵盤曲、これらの作品はどれも長くて5分、短いものは1分にもみたないショートピースですが、「うた」と「技巧」のバランスが完璧で、そこへアコーディオンを持ってゆくと実にピッタリ合う、要するにとてもよく似合う、と私は思います。

今回のせんくらではソロ・コンサートのほか、チェロの藤原真理さんとバッハの「ガンバソナタ」+ロシア民謡の「ともしび」「モスクワ郊外の夕べ」、そして打楽器の池上英樹さんとはピアソラの「リベルタンゴ」他、を御一緒させていただきます。これ等の音楽は、感情をこめて思いっきりうたうことが許され、またどんなにヴィルトーゾに弾いてもぶっ壊れない頑丈さがあるので、思う存分、心残りなく演奏したいと、今から張り切っております。

仙台クラシックフェスティバルの主催者、関係者、そして多くのボランティアの方々による、目に見えるところ、見えないところでの多大なご援助と、これほど沢山のコンサートを3日間で行なうための計り知れないご苦労、そして何よりもクラシック音楽を愛する皆様の熱い思いに、私は大きな感動と深い感謝の念をおぼえます。

最後になりますが、7日間も私の拙い文章と写真をご覧くださいまして本当にありがとうございました。仙台でお目にかかれるのときを今から楽しみに心待ちしています。

<プロデューサーノート 一流の表現者はネットの使い方も一流(御喜篇)>2007年08月18日 21時46分07秒

Photo:Hiroshi Koiwai


昨日の続きです。今週のブログ執筆者お二人はネットの使い方も徹底している、という話ですが、今日は御喜美江篇。

御喜さんで特筆すべきは、オフィシャルブログ「道の途中で」
http://mie-miki.asablo.jp/blog/ です。

これで何と言ってもすごいのは、ほぼすべてのコメントに御喜さんご自身が返事を書いていると言うこと。

いくら楽器がマイナーといっても、世界的プレイヤーで常勤のプロフェッサーでもある御喜さんが暇なはずはありません。それなのに、実に細かなコメントに、実に丁寧に細かく返事を書いているのです。

大体がアーティストでもスタッフでも我々の業界人でブログをやっている人間は、コメントは見ますが、返事はまず書きません。私なぞ、ブログは何らかの形で随分書いていますが、返事を書いたのはトータルで1度か2度あるかないか、くらいです。

ですから、御喜ブログは、写真も含めて本編は感覚的な詩みたいなものですが、(これも面白いですが)コメント及びその返事のやりとりは質量ともに読み応えがあります。

更に特にアーティストブログでは本音と建前の使い分けも難しいところですが、御喜さんの場合は天然自然なのか人徳なのか、よほどうまく取捨選択しているのか、ともかく台所にある連絡掲示板みたいな雰囲気が作られています。

ですから、せんくらで御喜さんの演奏に感銘を受けた方は、どうぞ御喜ブログにコメントをお書きください。ほぼ必ずご本人からのレスがもらえるでしょう。

と、全く対照的な吉松さんと御喜さんですが、それぞれアーティストサイト、ブログの代表例と言ってよいのではないでしょうか。

平井洋 せんくらプロデューサー