グリーン・ウッド・ハーモニー(2)今井邦男 ― 2007年07月30日 11時13分48秒
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今井邦男(グリーウッドハーモニー指揮者)
「父のピアノ」
僕は、今でも父の使っていたピアノを使っている。昭和15年製造のヤマハである。
満鉄(満州鉄道株式会社)に勤めていた父が、大連に住んでいた頃からのもので、僕はそこで昭和17年に生まれた。しかし父がカリエスに罹り、昭和19年12月には帰国することになり、宮城県は桃生郡須江(現石巻市)に療養目的で疎開したのである。 この時期にピアノを含む家具一切と共に引越しできたのは全く稀有のことだったに違いない。われわれを下関に運んだ客船は帰路爆撃をうけて沈没しているのである。
父は学生時代、個人レッスンで声楽を学んだ。師は武蔵野の東海林先生(東海林太郎の奥さん)とのことだった。ピアノも弾いたし作曲もした。こちらも相当程度レッスンを受けていたに違いない。父の兄弟にはもう一人、山田耕筰に和声を習い、作曲もする叔父がいたので(この叔父は専門家になり、後年日本音楽学会で活躍した)、当時としては洋楽を学ぶことができるというかなりモダンな家風が今井家にはあったのだろう。
というわけで父は、音楽を生業にこそしなかったが一生を音楽と共に生きた。満鉄時代には合唱団を組織してその指揮者をしていたし(これが150名はいる大合唱団だった)、 須江村で終戦を迎え、病床から少しずつ起きられるようになってからは、いつも村の中学校の生徒たちがわが家にコーラスの練習にやってきていたのである。練習場所が学校でなかったのは、病身の父の都合もあったと思うが、学校を含めて村にあるピアノが我が家の1台だけという事情のせいだった。中学生たちは戦後すぐのNHK学校唱歌コンクールに出場していたのである。
さてそのピアノだが、昭和15年頃のヤマハの技術の程度には詳しくはないが、外側はヤマハで内部のアクションはドイツ製だった。鍵盤は85鍵あり、(現在はほとんど88鍵)象牙を使っている。「だった」というのは実は現在のピアノは、14、5年前リニューアルしたものである。愛用していたピアノもさすがにピンの緩みが激しく調律が出来なくなっていたところ、現在大和町でピアノ工房を開き活躍されている伊藤正男さんと知り合い、リニューアルすることにしたのである。ピンを打つ響板を含めて、内部のアクションを全て一新する大改造である。結論から言うとこの改造は大成功だった。
以前のピアノは素晴らしく柔らかい、繊細な響きがいつまでの残るピアノだったが、一方でタッチは老化したせいもあってかフォルテの打鍵にはやや頼りないものだった。
リニューアルピアノは、さすがに以前の繊細な音色と打鍵後の長い響きを失っていたが、かといってどのピアノでも聴いたことがない新しい柔らかさと深みをもつ魅力的なものに変身していたし、打鍵は強打にも十分耐える素晴らしいものになっていた。
こうして父のピアノは今年で67歳、既に父の歳を越えている私より年上だが、優に私を越えて長生きすることは間違いない。大連で(確か購入は韓国のソウルだったかもしれない)満鉄合唱団の譜面が弾かれ、石巻では村の中学生の合唱の伴奏をし、何人かの専門家も育てた。
僕自身は自分のピアノを持っていたが、父の亡き後は次第に父のピアノで仕事をするようになった。今でもピアノに向かうと、どこからかピアノ自身の歌が聞えてくることがある。私の乳母の声である。
「父のピアノ」
僕は、今でも父の使っていたピアノを使っている。昭和15年製造のヤマハである。
満鉄(満州鉄道株式会社)に勤めていた父が、大連に住んでいた頃からのもので、僕はそこで昭和17年に生まれた。しかし父がカリエスに罹り、昭和19年12月には帰国することになり、宮城県は桃生郡須江(現石巻市)に療養目的で疎開したのである。 この時期にピアノを含む家具一切と共に引越しできたのは全く稀有のことだったに違いない。われわれを下関に運んだ客船は帰路爆撃をうけて沈没しているのである。
父は学生時代、個人レッスンで声楽を学んだ。師は武蔵野の東海林先生(東海林太郎の奥さん)とのことだった。ピアノも弾いたし作曲もした。こちらも相当程度レッスンを受けていたに違いない。父の兄弟にはもう一人、山田耕筰に和声を習い、作曲もする叔父がいたので(この叔父は専門家になり、後年日本音楽学会で活躍した)、当時としては洋楽を学ぶことができるというかなりモダンな家風が今井家にはあったのだろう。
というわけで父は、音楽を生業にこそしなかったが一生を音楽と共に生きた。満鉄時代には合唱団を組織してその指揮者をしていたし(これが150名はいる大合唱団だった)、 須江村で終戦を迎え、病床から少しずつ起きられるようになってからは、いつも村の中学校の生徒たちがわが家にコーラスの練習にやってきていたのである。練習場所が学校でなかったのは、病身の父の都合もあったと思うが、学校を含めて村にあるピアノが我が家の1台だけという事情のせいだった。中学生たちは戦後すぐのNHK学校唱歌コンクールに出場していたのである。
さてそのピアノだが、昭和15年頃のヤマハの技術の程度には詳しくはないが、外側はヤマハで内部のアクションはドイツ製だった。鍵盤は85鍵あり、(現在はほとんど88鍵)象牙を使っている。「だった」というのは実は現在のピアノは、14、5年前リニューアルしたものである。愛用していたピアノもさすがにピンの緩みが激しく調律が出来なくなっていたところ、現在大和町でピアノ工房を開き活躍されている伊藤正男さんと知り合い、リニューアルすることにしたのである。ピンを打つ響板を含めて、内部のアクションを全て一新する大改造である。結論から言うとこの改造は大成功だった。
以前のピアノは素晴らしく柔らかい、繊細な響きがいつまでの残るピアノだったが、一方でタッチは老化したせいもあってかフォルテの打鍵にはやや頼りないものだった。
リニューアルピアノは、さすがに以前の繊細な音色と打鍵後の長い響きを失っていたが、かといってどのピアノでも聴いたことがない新しい柔らかさと深みをもつ魅力的なものに変身していたし、打鍵は強打にも十分耐える素晴らしいものになっていた。
こうして父のピアノは今年で67歳、既に父の歳を越えている私より年上だが、優に私を越えて長生きすることは間違いない。大連で(確か購入は韓国のソウルだったかもしれない)満鉄合唱団の譜面が弾かれ、石巻では村の中学生の合唱の伴奏をし、何人かの専門家も育てた。
僕自身は自分のピアノを持っていたが、父の亡き後は次第に父のピアノで仕事をするようになった。今でもピアノに向かうと、どこからかピアノ自身の歌が聞えてくることがある。私の乳母の声である。
コメント
_ 紫苑 ― 2007年07月30日 13時31分50秒
ピアノの音色の違いって、聞き分けられないです。うちのピアノも40年程前のもので、鍵盤は象牙です。黄ばむのが嫌でしたが、理由がわかって納得しました。今は息子が使っています。
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